
人を活かす剣の使い手「剣聖」上泉信綱
剣術の祖と言われ、竹刀を発明した上泉信綱
永正5年、現在の前橋市上泉町にあった上泉城にて生誕した上泉信綱は、幼少の頃から剣術を学び、また教養も高く文武両道の侍として知られています。
上泉城四代目城主として、領民を守りながら武田信玄、北条氏康の大軍と戦い「上野国一本槍」と呼ばれ、その活躍は後世に語り継がれています。
また、新陰流を創始し弟子らとともに全国を巡り歩き、普及に努めました。
上泉信綱の新陰流は、柳生神影流として現在にも継承されています。
現在の竹刀の原型ともいわれる袋竹刀を発明し剣術の祖ともいわれています。
徳川300年の歴史を支え続けた、新陰流の開祖
日本兵法三大源流といわれる念流をはじめ、愛洲移香斎を師として陰流を学び、松本備前守からは神道流を学んだ上泉信綱は、その奥義を極め新陰流を創始します。
箕輪落城後は新陰流を普及すべく門弟とともに全国を巡り歩き、出会った柳生宗厳へ新陰流のすべてを印可相伝しました。
新陰流は柳生宗厳により柳生新陰流として伝承され、現在でも柳生神影流と称し当時のまま伝承されています。
他にも、新陰流は疋田陰流、タイ捨流、神後流などの流派に派生していきました。
上泉信綱の精神は「活人剣」すなわち人を活かす剣として徳川三百年を支えていきました。
貪欲に剣を学び剣の強さを追求した上泉信綱は「剣聖」とも呼ばれています。
今もなお生き続ける上泉信綱の精神
64歳の上泉信綱は故郷の上州へ向かいます。
そこからの足取りは記録がなく晩年は謎に包まれたままですが、一説では、下総国府台合戦で戦死した息子秀胤の13回忌の法要を行ったあと、後妻との子である有綱、行綱が仕えていた小田原北条家へ向かったともいわれています。
そして天正10年、75歳の信綱は息を引き取ります。(諸説あり)
詳細は不明のままですが上泉信綱は、武芸者として晩年を過ごし剣術指南に生きました。
そして現在もなお、上泉信綱が生まれた前橋市上泉町では、ゆかりの寺社や城跡がのこる上泉町と桂萱地区を「新陰流の聖地・剣聖の里」として「新陰流流祖祭」が催され、上泉信綱の功績を称えています。