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姫路城

 兵庫県

1346年築

1580年築

​1601年築

史跡区分

天守群が国宝指定 櫓・城門・塀などが国の重要文化財

築城主

​赤松貞範、池田輝政、豊臣秀吉

西国大名を睨む拠点

姫路城は、白漆喰総塗籠造の美しい姿が、天空に翼を広げた白鷺を連想させることから、白鷺城とも呼ばれる。

南北朝時代の貞和2年(1346)、赤松貞範が姫山に城を築いたのが姫路城の始まりとされているが、現存する天守など多くの建造物は、慶長6~14年(1601~1609)にかけて、池田輝政によって造営されたものであり。輝政は、徳川家康の次女である督姫と結婚し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。その戦功で、三河国吉田から、播磨52万石の領主として、姫路城の城主となったものである。

関ヶ原の戦いを勝利した家康は、なお不穏な西国諸大名ににらみを利かせることに加えて、名古屋城、彦根城などとともに、豊臣家の大阪城の包囲網を形成する拠点の一つとして、堅固で壮大な城とするように輝政に命じた結果、姫路城はこのような巨大な城郭となった。

​「不戦不燃」の城と言われ、築城以来およそ400年の間、戦の舞台になることなく、また第二次世界大戦の戦火に見舞われることもなく、築城当時の姿をとどめる奇跡の城である。

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乾小天守

左から乾小天守、大天守、西小天守が連なる見どころ。このポイントからは様々な破風の形も楽しめる。

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天守からの眺め

大天守から縄張りと市街が一望できる。屋根の鯱は防火のおまじない。鯱瓦は、高さ約1,9m、重さは300kg

最高の築城技術による天守群

それぞれ堀で囲われた内曲輪、中曲輪、外曲輪の三重の城域を形成している。内曲輪は、本丸(備前丸)、二の丸、三の丸、西の丸、出丸があり、姫山と鷺山の丘陵を利用した梯郭式縄張である。建物群は、17世紀初頭の木造建築として美的完成度の最高点にあるということで、平成5年(1993)、世界遺産に登録された。


姫路城の見どころの中心となるのは、何といっても、慶長14年(1609)に完成した、姫山の頂上に立つ国宝の4基の建物からなる天守群である。大天守、東・西・乾小天守、およびそれらを結ぶ二層の渡櫓で構成される連立式といわれる形式の天守である。

 

入母屋破風、千鳥破風、大千鳥破風、唐破風が複雑に組み合わされた意匠の屋根を持つ天守群は、見る方角によってさまざまに姿を変え、飽きることがない。姫路城を特徴づけ、別名の白鷺城の由来ともなっている白漆喰総塗籠造の壁は、防火、耐火、防弾を本来目的にしたものであるが、はからずも天守群の美しさを引き立てる役割を演じている。

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屋根の連なり

建物を安定させるため各層の軒先は違った方向を向いている。石垣の角には石落としが見える。

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りの門と太鼓櫓

塀の先には時を知らせる太鼓が置かれた「太鼓櫓」と「りの門」がある。

西の丸のみどころ
元和3年(1617)、池田輝政が鳥取城に移封されると、譜代大名の本多忠政が姫路城の城主となった。忠政の嫡男である忠期は、家康の孫娘千姫を嫁に迎えた。千姫は豊臣秀頼に嫁いでいて、大坂夏の陣で大坂城内から助け出されたのであった。

 

忠政・忠刻父子は、千姫のために姫山の西にある驚山に西の丸を築いた。御殿はすでにないが、西の丸の西部から北部を化粧櫓と渡櫓がぐるりと囲む。化粧櫓の内部は畳敷きで、また長く続く渡櫓の内部は百間廊下といわれる通路となっている。通路に面してたくさんの部屋があり、部屋は侍女の居室であった。

 

千姫や侍女のための施設にもかかわらず、渡櫓には屈曲部が設けられ、敵に横矢を掛けられる構造で、内部の要所要所には石落としを配置するなど、城砦としての顔もある。天守群ばかりが注目されるが、建物の構造や配置の意味をとらえて鑑賞すると、西の丸の渡櫓と櫓の連なりは機能美にあふれ、内部は重厚で見応え十分である。

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腹切丸の伝説

腹切丸は帯郭櫓と石垣に囲まれた広場。出入口は一つしかなく、武士が切腹を行ったといわれてもおかしくない雰囲気だが俗称と言われている。敵が城内に進入したとき、奇襲のために兵を隠す隠し砦である。

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播州皿屋敷のお菊井戸

上山里丸という曲輪に『播州皿屋敷』のお菊井戸がある。家宝の皿10枚のうち1枚を隠され、お菊は不始末として井戸に投げ込まれる。その後に毎夜「1枚、2枚」と皿を数える声が聞こえる⋯という物語の舞台である。

城を収めた歴代城主

貞和2年(1346)、赤松貞範の築城後、赤松氏の臣の小寺氏が城主となった。天文14年(1545)には、小寺氏の臣の黒田氏が城代となり、黒田官兵衛孝高のとき、羽柴秀吉の播磨平定を助け、城を秀吉に譲った。秀吉の後、弟の羽柴秀長、正室北の政所の兄である木下家定と城主が替わり、さらに池田輝政が城主となった。

元和3年(1617)、池田氏が転封されると、以後、本多、松、榊原、酒井など、城主は替わり、酒井氏で明治維新を迎えた。

​歴代城主の家紋がついた軒丸瓦が展示されている。

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姥が石の伝説

羽柴秀吉が姫山の地に、城を築いたとき、城の石垣の材料集めに苦労した。「それを聞いた老婆が、古い石臼を寄進し、秀吉は大いに喜んで石垣に使い、それ以後、石垣の材料は順調に集まったという。石を集めるのは難事業だったようで、石棺や石臼も使われた。姫路城の石垣のうち、3分の2が打込接の工法で、備前丸の石垣、帯櫓東面の石垣などあちこちで見られる。数は少ないながら野面積もある。秀吉時代の石垣が野面積で、菱の門の東に続く石垣、下山里の石垣がそれにあたる。
姥が石は、水の一門側の乾小天守の石垣にある。