西国大名を睨む拠点
姫路城は、白漆喰総塗籠造の美しい姿が、天空に翼を広げた白鷺を連想させることから、白鷺城とも呼ばれる。
南北朝時代の貞和2年(1346)、赤松貞範が姫山に城を築いたのが姫路城の始まりとされているが、現存する天守など多くの建造物は、慶長6~14年(1601~1609)にかけて、池田輝政によって造営されたものであり。輝政は、徳川家康の次女である督姫と結婚し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。その戦功で、三河国吉田から、播磨52万石の領主として、姫路城の城主となったものである。
関ヶ原の戦いを勝利した家康は、なお不穏な西国諸大名ににらみを利かせることに加えて、名古屋城、彦根城などとともに、豊臣家の大阪城の包囲網を形成する拠点の一つとして、堅固で壮大な城とするように輝政に命じた結果、姫路城はこのような巨大な城郭となった。
「不戦不燃」の城と言われ、築城以来およそ400年の間、戦の舞台になることなく、また第二次世界大戦の戦火に見舞われることもなく、築城当時の姿をとどめる奇跡の城である。
最高の築城技術による天守群
それぞれ堀で囲われた内曲輪、中曲輪、外曲輪の三重の城域を形成している。内曲輪は、本丸(備前丸)、二の丸、三の丸、西の丸、出丸があり、姫山と鷺山の丘陵を利用した梯郭式縄張である。建物群は、17世紀初頭の木造建築として美的完成度の最高点にあるということで、平成5年(1993)、世界遺産に登録された。
姫路城の見どころの中心となるのは、何といっても、慶長14年(1609)に完成した、姫山の頂上に立つ国宝の4基の建物からなる天守群である。大天守、東・西・乾小天守、およびそれらを結ぶ二層の渡櫓で構成される連立式といわれる形式の天守である。
入母屋破風、千鳥破風、大千鳥破風、唐破風が複雑に組み合わされた意匠の屋根を持つ天守群は、見る方角によってさまざまに姿を変え、飽きることがない。姫路城を特徴づけ、別名の白鷺城の由来ともなっている白漆喰総塗籠造の壁は、防火、耐火、防弾を本来目的にしたものであるが、はからずも天守群の美しさを引き立てる役割を演じている。
西の丸のみどころ
元和3年(1617)、池田輝政が鳥取城に移封されると、譜代大名の本多忠政が姫路城の城主となった。忠政の嫡男である忠期は、家康の孫娘千姫を嫁に迎えた。千姫は豊臣秀頼に嫁いでいて、大坂夏の陣で大坂城内から助け出されたのであった。
忠政・忠刻父子は、千姫のために姫山の西にある驚山に西の丸を築いた。御殿はすでにないが、西の丸の西部から北部を化粧櫓と渡櫓がぐるりと囲む。化粧櫓の内部は畳敷きで、また長く続く渡櫓の内部は百間廊下といわれる通路となっている。通路に面してたくさんの部屋があり、部屋は侍女の居室であった。
千姫や侍女のための施設にもかかわらず、渡櫓には屈曲部が設けられ、敵に横矢を掛けられる構造で、内部の要所要所には石落としを配置するなど、城砦としての顔もある。天守群ばかりが注目されるが、建物の構造や配置の意味をとらえて鑑賞すると、西の丸の渡櫓と櫓の連なりは機能美にあふれ、内部は重厚で見応え十分である。
城を収めた歴代城主
貞和2年(1346)、赤松貞範の築城後、赤松氏の臣の小寺氏が城主となった。天文14年(1545)には、小寺氏の臣の黒田氏が城代となり、黒田官兵衛孝高のとき、羽柴秀吉の播磨平定を助け、城を秀吉に譲った。秀吉の後、弟の羽柴秀長、正室北の政所の兄である木下家定と城主が替わり、さらに池田輝政が城主となった。
元和3年(1617)、池田氏が転封されると、以後、本多、松、榊原、酒井など、城主は替わり、酒井氏で明治維新を迎えた。
歴代城主の家紋がついた軒丸瓦が展示されている。