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井伊の赤備えとして敵から恐れられた井伊直政、その生き様とは

苦難の幼少期から徳川家康の家臣へ

1561年、今の静岡県浜松市で、今川家の家臣であった井伊直親の嫡男として誕生しました。ところがこの翌年、つまり直政が2歳の時に、父である直親が仕えていた今川家の当主から謀反の疑いをかけられ謀殺されてしまいます。

 

今川氏は嫡男である直政の命も狙っていた為、直政は今川氏に怯えながら母や井伊家を継いだ直虎(女城主として有名)に守られながら親戚や寺院など転々とする苦難の幼少期を過ごすことになります。しかしそんな苦難も遂に転機が訪れます。

 

1575年、直政が14歳の時に母や直虎の力添えで、生涯の主君となる徳川家康との出会いが実現し家臣になることが出来ました。家臣となった直政はそれこそ命がけで働きます。家康の伊賀越えや「井伊の赤備え」など数々のエピソードを作り、「徳川四天王」、また「徳川三傑」の一人として大活躍し1602年、42歳でこの世を去ります。

家康一世一代の大ピンチ、伊賀越えを命がけで守る

1582年、世にも有名な「本能寺の変」が起きます。実はこの時、信長から招待を受け、現在の大阪府堺市で茶会を開いていた徳川家康も大ピンチに陥ります。供回りはたったの34名。明智軍に見つかればもはや命はありません。

一刻も早く領地である三河(現在の愛知県)まで帰国しなくてはいけません。途中明智軍に見つからないように峻嶮な山道を歩き、命がけで伊賀を超えて無事領地に帰ることが出来ました。

これが有名な「神君伊賀越え」と呼ばれますが、この途中、家康一行があまりの空腹に耐えきれず供え物の赤飯を拝借して食べていましたが、井伊直政だけは手を付けませんでした。家康から「遠慮せずに食べろ」と言われた時、「敵が来たら私がここに残って討ち死にする覚悟です。

 

討ち死にした後に腹の中から赤飯が出てきたら、飢えのあまりにお供え物に手を出したことが知られてしまいます。そうなれば武士の名折れです」と発言し、その心意気に感銘した家康は帰国後、直政に褒美を授けました。

井伊の赤備え

井伊直政と言えば、赤い鎧の軍団であることから「井伊の赤備え」と呼ばれたことで有名です。これは元々武田信玄が「武田の赤備え」として軍団を率いていたのを継承したもので、武田家が滅んでしまい領主を失った武田の遺臣を家康が味方につけて井伊直政に託した後、直政が武田の戦い方を取り入れて、赤い鎧も一緒に引き継ぐことにしたためです。

 

この「井伊の赤備え」はこの後の小牧・長久手の戦いで大活躍し、一躍その名が全国に知れわたることになりました。

直政の生き様と最後

井伊直政は自分にとても厳しい武将ですが、家臣などへもとても厳しい武将でした。それも全て徳川家康の期待に応えるためなのですが、武田の家臣を引き受けてからその激しさは増したそうです。

 

様々なエピソードがありますが、手打ちにしてしまうこともあり、あまりの厳しさに逃げ出してしまう家臣もいたそうです。もちろん戦場では常に前線で戦う猛者でした。

 

直政が39歳の時に起きた「関ケ原の戦い」で東軍(家康側)が大勝利を収めたあと、敗軍である毛利家を存続させるために交渉し、真田幸村の助命に勤めるなど、戦以外の交渉力にも力を発揮しました。じつは関ケ原の戦いで直政は銃弾を受けてしまいます。これが原因だろうと思われていますが、2年後の42歳でこの世を去りました。