武田四天王の一人として武田家二代を支えた高坂昌信の生涯

農民から武田四天王になり、「甲陽軍鑑」を残した高坂昌信の人生とは

1527年、現在の山梨県石和に百姓であった春日大隅の子として誕生します。実は高坂昌信という名前はある一定の時期(10年間程度)しか名乗っておらず、それ以外は「春日虎綱」と名乗っていました。

 

高坂の名は香坂氏の家督を継いだので高坂と名乗るようになりました。1542年、昌信が15歳の時、父が他界し身寄りがなくなってしまいますが、武田信玄の家臣として召し抱えられるようになりました。

 

その後着実に実績を残すとともに昇進し、生涯の敵である上杉謙信の領地に最も近い海津城を任されました。長篠の戦で武田家が負けた後も武田家の為に働きますが、昌信が52歳の時に海津城でこの世を去りました。

差別を乗り越え、信玄を支える有能な侍へ

高坂昌信が武田家に召し抱えられたのが16歳の時です。農民出身の昌信が待ち受けていたのは、周りからの差別といじめです。24歳ぐらいまで毎日悪口を言われ続けますが、昌信は決して怒ったり反論したりせずに、黙って耐え続けます。そうすることが目をかけてもらった主君、武田信玄のメンツをつぶさないことになると確信していたからです。

 

やがてそのような悪口もなくなり、その精神力の強さに武田信玄からの信頼も一層増したようです。そしてこの昌信の忍耐強さに応えるように信玄から1552年、昌信が25歳の時、150騎を持つ侍大将を任じられ、翌年には当時攻略中だった村上義清に隣接する小諸城の城を任せられるようになり、名実ともに武田信玄の側近として出世をしていきます。

 

この後1556年、昌信29歳の時、上杉謙信との戦いが本格的になると、まさに最前線の抑えの場所である、海津城を任せられることになります。最も激しい戦いになった「第四次川中島決戦」の時に別動隊を指揮する形で参戦していますが、昌信はこれ以外の戦にはほとんど参加していません。というのも上杉謙信を抑えるという絶対的な重責があり、城を空けられなかったためと言われています。

武田滅亡と甲陽軍鑑の誕生

1573年に武田信玄が病気により急逝すると、息子の勝頼が後を引き継ぎますが、その時も昌信は海津城の城代を任せられるなど、その信頼は変わりませんでした。しかし、その後の長篠の戦いで武田が惨敗すると、武田家は滅亡への道を駆け降りるように一気に進んでいきます。

 

昌信は武田家がこのまま滅ぶのを察したためか、武田家の戦略や戦術を残そうと自分の甥に口述にて伝え始めます。これが後の「甲陽軍鑑」になります。

最後の最後まで武田家の為に動く

長篠の戦の後も、昌信は武田家の存続の為に、武田家と北条家との同盟強化や上杉家との関係改善などに務めますが、その最中に海津城で死去しました。

 

その後、武田家は滅んでしまうことになりますが、昌信が残した功績はとても大きかったと言っても良いでしょう。その最たるものが甲陽軍鑑だと思います。武田家の軍学などが現在にまで伝わったことはまさしく昌信が武田家に尽くしぬいた証であると言っても過言ではありません。

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