悪党から忠臣へ。鎌倉幕府を倒した立役者・楠木正成の生涯とは

お告げがもたらした運命の出会い。正成の人生を変えたのは?

後醍醐天皇に仕え、戦術家としても知られる侍・楠木正成がどのような生まれだったのか、これにはいろいろな説があります。

一番有力とされているのが、河内国(現在の大阪府東部)に代々続く侍の家の出身だったという説です。
しかし、侍の家に生まれたものの、鎌倉幕府には仕えていませんでした。
当時はそのような侍の集団のことを「悪党」と呼んでいました。

のちに正成は後醍醐天皇に従い討幕軍として戦うことになります。

後醍醐天皇は自ら政治を行い、自身の息子である護良親王に皇位を継承させたいと考えていました。
それには鎌倉幕府を滅亡させなければなりません。

討幕のために挙兵し笠置山で籠城していた時、お告げとも言える夢を見たことから、「楠」という名前の者を探したとされています。
その時探し当てたのが楠木正成でした。

正成は「これほど名誉なことはない」と、後醍醐天皇への忠誠を誓ったと言われています。
こののち、正成は討幕軍として戦に赴くようになりました。

元弘3年/正慶2年(1333)に起こった千早城の戦いでは少数ながら城を守り抜き、幕府軍を撤退させることに成功しました。
その働きにより、各地の侍が鎌倉幕府を滅亡させようと兵を挙げたと言われています。

やがて鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇が政権を握りました。


その後も正成は変わらぬ忠誠を貫き通し、足利尊氏と戦うことになります。

延元元年/建武3年(1336)に起こった「湊川の戦い」は、けして有利な戦いではありませんでした。
正成は敗戦したのち後醍醐天皇への変わらぬ忠誠を誓い、自害したと言われています。

 

後醍醐天皇に忠誠を誓った知恵の侍・楠木正成

鎌倉幕府を滅亡させた要因の中で特に重要となっているのが千早城での戦いだと言われています。
正成はわずか1000の軍勢で20~100万といわれる幕府軍に立ち向かったそうです。

戦いの舞台となった千早城は城の三方を深い谷に囲まれ、背後には金剛山がありました。
幕府軍は力づくで城内に攻め込もうとします。
城壁を上り侵入しようとしますが、楠木軍は櫓の上から石を投げ、敵がひるんだところに矢を射かけるという方法で応戦しました。

数で優っていた幕府軍ですが、高い場所から狙い打ちされてはたまりません。
作戦を変更するために一旦、退却することになりました。

次に幕府軍は、千早城の立地から水が不足するだろうと考え、水の補給に出たところを攻撃しようと待ち受けます。
ところが楠木軍は初めから水が不足することを想定し、十分に用意していました。


幕府軍は、楠木軍がいくら待っても補給に出て来ないので、待ちくたびれて油断していたところを襲撃されてしまいます。
ここでも崖から大きな石などを落とされ、幕府軍の士気は一気に落ちてしまいました。

再び城に攻め込もうとした幕府軍に対し、楠木軍は藁人形で兵士の偽物を作り、城のふもとにおびき出すという作戦を決行。


こちらも見事に成功し、幕府軍は城に攻め込むのを諦め退却しました。
千早城周辺の地の利や敵の心理を生かした見事な戦術だったと言えます。

楠木軍が幕府軍を相手に奮闘していたことで、幕府を倒そうと画策していた侍たちの士気が上がりました。
伊予国(現在の愛知県)、長門国(現在の山口県)、肥後国(現在の熊本県)などでも、討幕運動が起こったと言われています。
そして、それまで幕府の味方だった侍・足利尊氏や新田義貞も関東で挙兵したことにより、討幕運動は一気に加速しました。

また、天皇の位を剥奪され、罪人として隠岐島へ流されていた後醍醐天皇も脱出に成功します。
鎌倉幕府が滅亡した決定的な戦いは新田義貞によるものでしたが、楠木正成の奮戦が大きく影響したと言われていま
す。

自らの命が果てようとも、後醍醐天皇に忠誠を誓った正成

鎌倉幕府が滅亡すると、いよいよ後醍醐天皇の時代になりました。

討幕軍として功績をあげた正成は重要な役職を数多く務めたと言われています。

また、正成は戦に強いだけではなく、戦略を考えることにも秀でていました。

 

足利尊氏が後醍醐天皇の政策に不満を持ち弓を引いた時には、社会の混乱を収めるためにも足利尊氏と手を組んだ方が良いと進言しています。

ところが天皇家の誇りを重んじていた後醍醐天皇はこれを受け入れず、戦うことを選んでしまいました。

 

また、正面から向かって行っては足利尊氏の軍勢にはかなわないと考えた正成は、少しでも有利に戦えるような戦略を進言します。

しかし、ここでも受け入れてもらえず、京を出て戦うように命じられてしまいました。

後醍醐天皇に忠誠を誓っていた正成は負けることを覚悟したうえで命令に従い「湊川の戦い」に向かいます。

 

「湊川の戦い」では足利軍の戦略が大きく働き、楠木軍は敗れてしまいました。

正成は「何度生まれ変わっても天皇のために戦う」と誓い、自害したと言われています。

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