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名古屋城

愛知県

1610年築

史跡区分

隅櫓、門、御殿にあった襖絵・杉戸絵などが国の重要文化財

築城主

徳川家康

家康による天下普請の命が下る

勇壮な金誠をいただいた大天守を持つ名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城として威容を誇る。明治に入って廃城を免れたものの、第二次世界大戦末期、昭和20年(1945)5月14日の米軍の空襲により、天守と本丸御殿、東北隅櫓などを焼失した。

 

名古屋城を築いたのは、徳川家康である。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、なお隠然とした影響力を持つ豊臣秀頼の存在を危惧し、大坂城の豊臣氏に対する牽制、関東防衛の一大防衛線の構築の必要性を痛感した。清洲城にいた豊臣秀吉子飼いの福島正則を安芸に移し、第九男の徳川義直を城主に据えた。しかしながら清洲城は規模が小さく、水害もあったために、新しい城を建てる必要があった。

 

名古屋、古濃、小牧の候補地の中から、廃城となっていた那古野城のあった名古屋台地が選ばれた。名古屋台地は北面と西面は高さ10メートルの崖で、その先は広大な湿地、さらに庄内川、木曽三川と続く天然の要害であったためである。また、南面方向には平地が広がり、城下団を染くことがてきたのも、目的にかなった地てあったようである。

 

家康に天下管請を命じられたのは、秀吉ゆかりの加藤清正、福島正則、池田輝改ら20家の大名てある。家まに対する忠識を試し、これら大名の財力を前ぐのが目的てもあった、慶長1年(1010)に工事は始まり、感長1年(1610)には天守や密題が充成、元和元年(1615)には徳川義直が本丸に入り、翌年二ノ丸御繋が完成した。

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​大天守・小天守

名古屋城の天守は空襲で焼失したあと、昭和34年(1959)に再建された。連結式の天守で、大天守は五層七階で地下1階、小天守は二層二階で地下1階。大天守の屋根には名古屋城の象徴でもある金の鯱鉾が鎮座している。大天守の最上階からは広々とした景色を一望でき、晴れた日は中央アルプスまで見ることができる。

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​金鯱

鯱は中国に伝わる伝説の海獣で、水に縁起があるということで、防火のまじないで天守に飾られた。本丸方向から見て、右(北)が雄、左が雌。大阪造幣局が復元・製作し、雌43.39キロ、雄44.69キロの金が使用されている。

重厚さと優美さを併せ持つ大天守

縄張は、天守が建つ本丸を囲んで、西北に御深井丸、東から東南に二ノ丸、南から西に西ノ丸があり、さらにそれらの曲輪を広大な三ノ丸が凹の字に取り囲み、防御する輪郭式縄張である。

 

現在、三ノ丸跡地には、名古屋市役所、名古屋高等裁判所などが立っているが、縄張と外との境にあたる場所に、石垣の一部と空堀が残っている箇所があり、往時の城域の広がりを実感することができる。天守は連結式天守で、大天守と小天守は橋台によって結ばれている。大天守は外観五層の典型的な層塔型で、非常に安定感・重厚感がありながら、破風が最も多い天守といわれ、千鳥破風、唐破風の優美な重なりが、きめ細やかな印象も与える。


大小天守は昭和34年(1959)の外観再現のコンクリート造りだが、本丸の東南、西南、御深井丸の西北の隅櫓は、戦禍を免れて当時の姿を今にとどめている。いずれも重要文化財に指定されていて、趣のある姿を楽しむことができる。それぞれに形や破風が違い、その違いを確認しながら歩くのも一興である。

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西南隅櫓

二層三階。初層南面に入母屋破風と唐破風を重ねた重破風。それぞれ石落としを備える。

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西北隅櫓

三層三階。北面と西面の千鳥破風は、落狭間(石落とし)を備える。清州上の天守だったといい伝わる。

絢爛な本丸御殿を再現

本丸御殿は、約3000平方メートルの平屋建て。当初は、藩主の義直の居室・政務の場所だったが、その後、将軍の上落の折の殿會として使用された。近世城郭御殿の傑作として、国宝の京都・二条城の二ノ丸御殿と並び称されたが、第二次世界大戦の空襲で焼失した。

 

現在、獲絵、杉戸絵、天井板絵など1047面が残り、重要文化財に指定されている。空襲を危倶し、疎開していたた最近まで姿をとどめていたこともあり、古写真や実測図などの資料が多くあり、忠実に復元されることになった。


表書院、対面所、御湯股書院上洛殿などが障壁画、襖絵などの模写とともに復元、公開される。天守と御殿が建ち並ぶことで、城郭としての風格が完成するということで、楽しみである。

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正門

明治43年、旧江戸城の蓮池御門が移築されていたが、第二次世界大戦で焼失、のちに再建された。

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旧二の丸東二の門

かつての門は第二次世界大戦で焼失した。二の丸東枡形にあった東鉄門を移築したものである。

数奇な運命をたどった金鯱

最初に作られた金触の高さは、雄が2,57m雌が2,51m。寄木の木型に鉛板を貼り、継型の銅根きとめ、その銅板に金の近べ板をかぶせて造られた。使われた金は、慶長大判1940枚、重さ320キ日であった。

 

ちなみに現在の復元された魷は、プロンズの原型に漆を焼き付け、銅板に金板を貼りつけた緒をつけた。慶長大判の金の純度は高く、蒲は財政困窮の際に、緒を鋳なおして使い、そのたびに緒の金の純度は下がっていったという。

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清正石の伝説

本丸東門枡形の中の石垣に置かれた、縦2m×横6mあまりの巨大な鏡石。加藤清正が運んだ石と伝えられる。

那古野城跡

かつて織田信長も居城とした那古野城。跡地には記念碑が建てられている。

織田信長の居城でもあった那古野城

名古屋城の前身は、戦国時代に駿河の守護である今川氏が築いた那古野城で、現在の名古屋城二ノ丸庭園付近に位置していた。二ノ丸には那古野城古碑が建てられている。今川氏の一族の民豊を城主としたが、享禄5年(1532)、織田信秀(信長の父)によって氏豊は追放された。

 

織田信秀の後を継いで、信長が城主となり、天文24年(1555)、清洲城に移るまでこの城で成長した。信長の後、叔父の織田信光、家臣の林参資らが城主となったが、天正10年(1582)に廃城となったとされる。