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大阪城

大阪府

1583年築

1620年築

史跡区分

大手門・焔硝蔵など13の建造物が重要文化財 本丸と二の丸が国指定の特別史跡

築城主

豊臣秀吉 徳川秀臣

地の利に恵まれた城

大坂城が立地するのは、大阪湾に面した上毗台地の北端で、この台地は北、東、西が淀川、旧大和川などの河川や湿地に囲まれた天然の要害である。また、商工業や政治文化の中心である奈良、堺、京都に近く、河川や大阪湾を利用した海運による貿易のための港を開くことができた。


大坂城築城以前は有利な立地条件のためか、古代には難波宮、中世には石山本願寺と寺内町が造営されて繁栄した。この魅力的な地に目をつけたのが織田信長であった。10年以上もの攻防の果てに、天正8年(1580)、石山本願寺は明け渡しを受け入れた。天下人を目指す信長は築城を開始したが、天正10年(1582)、本能寺の変で野望は潰えた。


信長の後継として躍り出た豊臣秀吉は、天正11年(1583)築城を開始。数期の工期を経て、秀吉死後の慶長4年(1599)頃に完成した。秀吉死後に秀頼が城主となるが、関ヶ原の戦い、冬の陣、夏の陣を経て大坂城は落城した。

 

夏の陣の後、大坂の地は松平忠那に下されたが、元元和5年(1619)、大坂は幕府の直轄領となった。2代将軍秀忠の命で、翌年正月から大坂城の再築工事が始まり、3代将軍家光のときに完成。徳川幕府は豊臣の時代の終わりを示すために、大坂城に残る豊臣の痕跡を完全につぶした。現在見られる遺構は、ほとんど徳川時代の
ものである。

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石垣

本丸の東、北、西の三方は水堀、南は空堀であ
る。横矢をかけやすい屏風折の石垣が特徴。南に行くほど高くなっていて、水面からの高さが24メートル、堀の底に据えられた根石から32メートルという高石垣である。

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天守

徳川時代の天守は、寛文5年(1665)、北側の鯱に落雷して焼失した。それから昭和6年に再建されるまで、大坂城は天守のない城であった。現在の天守は、昭和6年(1931)に建設、外観復元で内部は鉄筋コンクリート八階建て、高さは54.8メートルで、「大坂夏の陣図屏風」を参考に、豊臣時代の天守を再現した。最上層の黒壁と金箔の伏虎と鶴が最大の特徴である。天守台は徳川時代のものである。

壮麗な大天守と石垣

大坂城は本丸を二の丸、三の丸が囲む輪郭式の巨大な平城で、築城技術の完成期に造営された。現在の天守は外観復元の五層、内部はコンクリート造りの八階。四層目までの壁は自漆喰仕上げで、最上層の壁には金箔で虎、鶴の絵が描かれ、豊臣時代の天守を再現している。

屋根は銅瓦葺き、軒先の丸瓦、平瓦は金箔瓦である。金箔の絵、青味を帯びた緑色の屋根と、軒先瓦の金箔の対比が典雅で美し高層ビルがなく、沖の埋め立てが進んでいなかった豊臣、徳川時代当時、大城湾に入ってきた船、淀川を行き来する船からは、圧倒的な迫力を持って天守が目に飛び込んできたことだろう。


石垣を積み上げる技術は最高に達し、塀と城壁の石垣は規模が大きい。石材は京都の加茂、兵庫県の六甲、瀬戸内海の島々から運ばれた。瀬戸内の石は良質の花闘岩で、多くの石が海路で運ばれた。本丸内堀、二の丸の南面と西面の石垣は、水面から約20メートルもの高さを誇り、屏風のように折れ曲る屏風折という横矢掛けや、向かい合わせに突出部を設けた合横矢など、防御の技巧が凝らされた石垣が続く。

 

打込接という工法で積み上げ、角は強度を確保した算木積みである。また、桜門桃形の蛸石や、大手口枡形の巨石など、とにかく巨石がふんだんに使われているのも大坂城の特徴で、当時の石垣加工技術が高いレベルにあったことを実感するのも大坂城めぐりの醍醐味であろう。


二百数十年という長い歴史を持つ大坂城には、ゆかりの人物の史跡も多く残る。例えば、夏の陣で秀頼、淀殿が逃げ込んだ山里曲輪、曲輪に建立されている自刃の地碑、城内ではないが、東軍に大打撃を与えて奮闘した真田幸村の戦死跡之碑が建つ安居神社などを訪ねるのもよいだろう。

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一番櫓

の丸南面の東にある二層の櫓。大坂城は南
面が陸続きであるために、二の丸の南外堀に
向けて一〜七番の櫓を設けて、防御とした。

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​青屋門

二の丸東北にある櫓門。戊辰戦争で焼失して
復元されたが、再び第二次世界大戦の空襲で
焼失。昭和44年に復元された。

大阪城4つの顔

大坂城には徳川大坂城のほか、4つの城の痕跡がある。
大化 難波宮
1950〜1960年代の発掘で、回廊跡、柱列跡などが発見され、大化元年(645)から天平15年(743)までの間に、三期に渡り難波宮という都城があったことが判明した。大坂城南西馬場町、法円坂、大手町四丁目にかけて遺跡があり、その一帯は難波宮跡公園で、大阪歴史博物館では難波宮に関する展示が見学できる。
天文 石山本願寺
明応5年(1496)、一向宗本願寺の蓮如が山科本願寺の別院として、大坂・石山の地に御坊を建てた。山科本願寺が戦国の騒乱に巻き込まれたために、天文元年(1532)、石山の御坊を一向宗本願寺の本山とし
た。堀、塀、土塁などを備えた、戦国武将の攻撃に備えた城砦となっていた。広大な寺内町が形成され、それが大坂の町並みの原型となった。
天正 信長大坂城
元亀元年(1570)から11年に及ぶ戦いの末に、天正8年(1580)、顕如は織田信長に石山本願寺を明け渡した。織田信長は、甥の織田信澄と丹羽長秀に築城を命じ、天正10年(1582)5月には城門、櫓などが竣工し、かなりできあがっていたが、同年の本能寺の変で信長の野望は潰えた。
天正 豊臣大坂城
天正11年(1583)築城を開始、慶長4年(1599)頃に完成。天守は天正13年(1585)に完成され、絵画資料から外観五層で推定約40メートルの高さとされている。大坂夏の陣で、豊臣氏の大坂城は焼失し、徳川幕府によってその上に新しい大坂城が築かれた。

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真田幸村像

真田幸村が脱出したとされている抜け穴と佐田幸村の銅像が並んでいる

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豊臣秀吉像

信長の跡を継ぎ、全国統一に奮闘した秀吉。その視線の先には何を見ていたのか。

太閤はんのお城

現在見られる大坂城の遺構は、すべて徳川時代のものである。しかし、大阪の人々は大坂城をよく「太閣はん
のお城」と呼ぶ。徳川家康によって滅亡に追い込まれた豊臣氏に対する憐憫の情なのだろうか。徳川によって地下に埋められた秀吉の大坂城だが、秀吉時代の遺構がいくつかある。秀吉時代の三の丸石垣は、追手前学園小学校の地下で見つかり、東側道路沿いに移築展示されている。また大阪府女性総合センター建設時にも石垣は見つかり、地上に展示されている。

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