大刀を振り剛弓を携え戦場を駆けた女性・巴御前の生涯とは

稀代の名称・木曽義仲とは幼馴染?全てが謎につつまれた巴の生涯

巴御前は「平家物語」や「源平盛衰記」に木曽義仲と共に戦った女性の侍として登場します。

しかし、鎌倉幕府が編纂した「吾妻鏡」には登場していません。

そのため、巴の生い立ちについては謎につつまれています。

 

一番有力なのが木曽義仲が育った信濃国(現在の長野県)の侍の娘だったのではないかという説です。

巴は義仲と幼少期を共に過ごし、武芸の稽古を一緒にしていたとも語られています。

その時、武芸の才能を見出され、義仲が源平合戦に出陣した時も行動を共にしました。

 

女性でありながら侍として戦に出た巴と義仲の間には、公私ともに深い絆があったと言われています。

しかし巴は、宇治川の戦いを最後に、戦場から姿を消しています。

義仲と道を分かれた後、どのような生涯を送ったのかは、定かではありません。

 

晩年は出家し、91歳でその生涯を閉じたとも言われていますが、各地に墓碑などがあり、その生涯は謎につつまれたままです。

ただ義仲のために!敵も恐れをなした巴の活躍とは

治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけて起こった治承・寿永の乱に参戦した木曽義仲の傍らには、美しい女性の侍・巴御前の姿がありました。

巴は肌の色が白く、黒髪も美しい女性だったと言われています。

そのように美しい女性でありながら、ひとたび戦になると敵の侍をものともせず、勇敢に戦いました。

その姿に、敵の侍は恐れをなしたとも言われています。

 

治承5年(1181)・横田河原の戦いや、寿永2年(1183)・倶利伽羅峠の戦いでは、指揮官として侍を従え、義仲軍の勝利に貢献しました。

寿永3年(1184)、源頼朝軍と対戦した義仲軍の中にも、巴の姿がありました。

 

宇治川の戦いと呼ばれるこの戦いは、義仲軍には不利な戦いだったと言われています。

戦いの末、義仲軍の侍は7人になってしまいましたが、その中には巴も含まれていました。

巴は最後まで義仲と共に戦おうとしましたが、義仲に止められてしまいます。

義仲は敵に立ち向かい、自分も討ち死にしようとしていました。

しかし女性である巴は、それに従うことはないと説得されたのです。

また義仲が、信濃国に残してきた妻子に手紙を届けてほしいと懇願したという逸話も残されています。

 

義仲の説得にようやく応じた巴は、この場から立ち去る決心をしました。

そして「最後のご奉公」として、向かってくる敵と対峙しました。

巴は敵の馬と自分の馬を並べて走らせ、敵を馬上から引きずり下ろしたあと、その首をはねたと言われています。

その後、巴は戦場から姿を消しました。

全ては歴史の波の中。巴御前の波乱に満ちた生涯の真実とは

義仲のもとを離れた巴は、敵対していた源頼朝の命令で首を斬られることになります。

ところが巴の美しさなどに惹かれた和田義盛は、彼女を自分の妻とて迎え入れました。

義盛は、巴が武力にも長けていたので、その血筋を自分の子孫に残したいと考えたと言われています。

巴は義盛との間に息子・朝比奈義秀をもうけています。

 

晩年の巴は仏門に入り、義仲などゆかりの人々を弔う日々を送りました。

そして、91歳で生涯を終えたとされています。

 

しかし、巴の子息が義秀であることや、尼僧になり91歳で生涯を終えたということに対して、明確な記録が残っているわけではありません。

後の世の人々が語り継ぐ中で生まれた物語とも言われています。

 

しかし、当時の甲信越地方では、侍の家に生まれた女性は、男性と同じように武術の訓練を受けていたという例もありました。

そのため、巴が勇猛果敢な女性の侍だったという物語も受け入れられ、語り継がれたのではないでしょうか。

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