84歳まで生きた波乱万丈の侍、宇喜田秀家の人生

豊臣秀吉に気に入られ異例の出世街道から晩年の流罪生活まで経験

1572年、現在の岡山県岡山市、岡山城主の宇喜田直家の次男として誕生しました。秀家が9歳の時に父が他界し、若くして秀家が跡を継ぐことになります。

父である直家は織田信長に仕えており、家督を継いだ直後には豊臣秀吉指揮のもと、毛利家の水攻めにも参加をしていました。その最中に本能寺の変が起き、信長没後は豊臣秀吉に仕えることになります。

 

秀家は父である直家が信長に仕えていたこともあり、秀吉にとても気に入られていたようです。その証拠に秀吉の養女であり、前田利家の娘でもある豪姫と結婚し、その後、五大老まで昇り詰めることになります。

秀家は父のおかげで出世をしたのでとても運が良いと思われがちですが、実は戦や治世についてもとても素晴らしい実績を残しています。

 

しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)が負けると宇喜田家の中で家康に加担するものが現れお家騒動が起きてしまい、最終的には家康により八丈島へ島流しになってしまいます。秀家はその八丈島で84歳の生涯を閉じます。

数々の戦で活躍し朝鮮出兵では総大将に。そして五大老へ昇格

秀家は秀吉からとても気に入られていたのは先ほども書きましたが、11歳の時に秀吉より現在の岡山市県津山市に57万石という大変大きな領地を授かりました。

 

1590年の時に岡山城の築城に着手し、1597年に天守閣を完成させました。岡山城下に商工業者を集め領国経営にも力を入れます。もちろん、その間、数々の戦でも活躍します。

1584年の小牧・長久手の戦い。1585年の紀州征伐。1586年の九州征伐。1590年の小田原征伐。そして1592年の文禄の役から始まる朝鮮出兵では大将を務めるなどして素晴らしいい実績を残します。

 

二度目の朝鮮出兵から帰国後、秀家が27歳の時に豊臣五大老の一人に任命されます。他の五大老は40歳を超える中、異例の若さでの任命となり、秀吉からの絶大の信頼を寄せる武将になりました。

関ヶ原敗戦の後、島流しへ。八丈島にて最後を迎える

そんな栄華を誇った秀家も1598年に豊臣秀吉がこの世を去ると、少しずつ人生が変わり始めます。秀吉亡き後宇喜田家で「宇喜田騒動」と言われるお家騒動が起こります。

 

これを解決することが出来なかった秀家のもとから、有能な家臣が次々と宇喜田家を離れ徳川家康のもとへ流れてしまいました。その後1600年に起きた関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)が敗れると、秀家は親類や知人に匿われながら逃げる日々が続きますが、ついに家康に知れるところとなり、八丈島に島流しになりました。そこでおよそ50年の月日を過ごし84歳でその生涯を閉じます。

 

八丈島での生活については豪姫の実家である前田家などの支援もあり比較的恵まれた環境で過ごしたようですが、50年という人生の大半以上を絶海の八丈島で過ごしていた秀家の胸中はどのようなものだったか知る術はありませんが、侍の生き様を見ることが出来たと思います。

Stay Connected

  • Facebook
  • Pinterest
  • Instagram

©2020 by SAMURAI MANIA.